安田峰俊

老北京の男はタフでハートフルだ。そして三度の食事よりも政治の話が好きである。郭は喋りながら 燕京ビールを何瓶も空け、蒸気機関車のようにぼうぼうとタバコの煙を吐いた。下町の食堂の石油ストーブの空気によく合う振る舞いだった。 「……ところで、君は 六四を知っているか?」 やがて、酔いも手伝って互いに打ち解けたころ、彼は唐突にこんなことを言い出した。 六四。もしくは八九六四。すなわち一九八九年六月四日に発生した六四天安門事件だ。中国の政治改革を要求した学生や市民のデモに対して、当時の中国共産党の最高指導者・ 鄧小平らが人民解放軍の投入を決定し、武力鎮圧をおこなった。公式発表でも三〇〇人以上、一般的な解釈では数千人から一万人以上の犠牲者が出たとされている。 「知っていますが、当時の私は小学二年生でしたから、リアルタイムの記憶はないんです」 「事件を知っている日本人は多いのかい?」 「新聞やテレビで、たまに特集が組まれています。世界史の教科書にも出てきます。名前くらいは知っている人は多いはずですよ」 郭は「そうなのか」としばらく黙り込んだ。 「……あの事件の話は中国ではタブーだ。おおやけの場で論じてはならない」 自分から話の口火を切っておいて「タブーだ」もないだろう。案の定、私が何も言わずにいると、彼は勝手に思い出話を語りはじめた。